「知る」ということ

本当は今日からイエローナイフに行く予定だったのだが、
急遽キャンセル。まあ、ちょっといろいろとありまして。
そんなわけで久しぶりに散歩に出かけてみた。


なんとなくだんだかんだで行ったことがなかったUBC(the University of British Columbia)に行き
なんとなくその裏手の海岸に入ってみた。
すると目の前に海が広がり、その真上に太陽が。
考えて見れば当たり前なのだが、
バンクーバーは西海岸沿いの街なので、太陽は海に沈むのだ。
今日は晴れてはいたけれど、水平線上に雲があり、途中で太陽が隠れてしまったが、
雲がなければすごく夕陽がきれいなんだろう。


そのままタラタラと海岸沿いを歩いていくと、
いきなり素っ裸のじいさんがフリスビーをやっていてびっくり。
よく考えたら、この海岸はヌーディストビーチとして有名らしいのだ。
浜辺から内陸側に入っていく道には
「Clothing is required」
の文字。
初めはどういう意味かよくわからなかったのだが、
要は「裸でOKなのはビーチだけよ」ということなのだと理解して爆笑。
さらに歩いていくと、
海(湾)の向こうに雪山が見え、その景色もなかなかいい感じだった。


なんだかバンクーバーという街の今まで知らなかった側面を見た気がして
ちょっとうきうきしてしまった。
2ヶ月ちょっと滞在してだいぶ慣れてきたこともあり
バンクーバーを結構知っていたつもりになっていたのだが、
実はほとんどわかってないのだろうなぁ、とあらためて思い直した。


「知る」ということは
誰かの追体験をすることではなく、
自分の感性に則って対象をリアルに深掘っていく、ということなんだと思う。


たとえば
UBC、スタンレーパーク、グランビルアイランド...と観光名所を一通り回ったところで
それはバンクーバーを知ったことにはならない。
UBCの浜辺ひとつ取っても
冬でもヌーディストがいるとか
たまに浜辺で石ころを探している人がいるとか
夕暮れの雲はすごく美しいとか
不思議な香りがするとか
いろんな切り口の興味深いディテールがあって、それぞれに感動があったりする。
それらをひとつひとつ積み上げていくのが「知る」ということなんだと思う。


以前、学校でフランス人のお姉さんに四万十川の写真を見せたら
ここも日本なのか、と目を丸くしていた。
日本と言えば都会の国、どこもかしこもビルだらけ、
というのが彼女の持っていた日本のイメージだったらしいので
まさか自分の国よりも山深いようなところがあるとは思っていなかったようだ。
東京にしたって、六本木のような都会的な場所から上野アメ横奥多摩までそのイメージは幅広い。
そういう意味では
ほとんどの日本人は自分の住んでいる日本でさえ、そして東京でさえよく知らないのだと思う。


物事とはいつも重層的なもの。
違う切り口(=興味の方向性)で見ればいつも新鮮なものでも
惰性で見始めると全てがくだらなく見える。
そういうものかもしれない。


この街をみる視点がだいぶ変わった一日でした。
負け惜しみではないけど
オーロラ見に行くよりも個人的には意義深い一日だったような気がする。


人間万事塞翁が馬